養源院
豊臣秀吉の側室 淀殿が父 浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に建立される開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(1594年)である
養源院の寺院名は浅井長政公の戒名そのものである その後程なくして火災にあい焼失するも、元和七年(1621年)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室、お江により伏見城の遺構を用いて再建される 以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌をまつる寺院となる 現在の本堂(客殿)は再建時のものとなる
平成二十八年二月に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂等が国の重要文化財に指定された
*護摩堂、中門は通常非公開
*本堂(客殿)の廊下は総て“ うぐいす張り ”となる
俵屋宗達の障壁画が当院にある理由
当院は杉戸絵·襖絵と俵屋宗達の傑作を多数所蔵している
宗達の傑作が当院、 本堂 (客殿)に納められている意義は計り知れないぐらい大きなものとなるが、この理由は様々な説がある最も一般的に解釈されている説は“尾形宗柏と本阿弥光悦”の推挙によるものである
養源院の再建は徳川秀忠夫人、お江による幕府の私的事業であったしたがって、障壁画の制作は狩野派に命じられたはずであったがこの時分、二条城の障壁画制作などの公的事業で狩野派の絵師に依頼することが困難であった
そこで宗達が登場することとなるのである 浅井殿家来筋であった尾形道柏は京に呉服商"雁金屋"を開いた“雁金屋“は浅井家女性に絶大な引き立てを受けお江もその一人である尾形道柏から雁金屋を継いだ尾形宗柏(尾形光琳 乾山の祖父) が芸術家で当時の実力者であった本阿弥光悦を介してお江に宗達を養源院の主たる絵師として推薦したのである尾形道柏の妻、すなわち宗柏の母は本阿弥光悦の姉であり宗柏は光悦と親しい間柄であるまた宗達と光悦は両者の合作“鶴図下絵和歌巻“から見て取れるようにまさに阿畔の呼吸の間柄である 以上のような当時の諸事情と複雑な人間関係のもとで奇跡的に俵屋宗達の障壁画が当院に複数現存するのである
また近年の研究で尾形家一族 (道柏·宗柏·光琳·乾山) や本阿弥光悦、 俵屋宗達は皆すべて親類にあたることが明らかにされ報告されている* 杉戸絵は表現内容の豊かな霊獣を描き、捜絵の特徴は構図は絵巻物と密接に関係しながら狩野派が徹底できなかった抽象的表現による金箔地となる
この養源院での障壁画制作の成功と功績を考慮してお江の末娘である東福門院· 和子の推薦を経て“法橋という位を宗達は得ることとなる この養源院での障壁画制作以降の作品では“法橋宗達“という署名がみられるものが多い(松島図屏風·源氏物語·関屋·澪標図扉風·舞楽図屏風など)当院の障壁画は宗達にとっての出世作であることも領ける
*光悦の妻の姉妹が宗達の妻となる説がある
*当院の本堂(客殿) は伏見城の遺構とされるものが多数、 現存しているが
宗達の障壁画は全て当院再建時のものであり再建とほぼ同時に納められている
伏見城の障壁画であったものを移してきたものではない